序文——北欧を旅する人の「幸福の靴」となることを願って

ハンス・クリスチャン・アンデルセン

さあ、お話をはじめますよ! ……などと威勢よく語り出すことができればいいのですが、ここでお目にかける文章は、アンデルセン紹介としてはずいぶん無愛想に思われるかもしれません。といいますのも、すでに周知されて久しいハンス・クリスチャン・アンデルセン(Hans Christian Andersen 1805-1875)の名を語ることは、いまいち気合いの入れどころがわからない、芯でとらえようのない仕事にも思われるからです。

みなさんにとってもおそらく同じことで、今さらアンデルセンの話なんて……と思われる向きは少なくないのではないでしょうか。いったい私たちは、次のようなお定まりの書き出しを何度目にしたことでしょう。

『親指姫』や『マッチ売りの少女』、『人魚姫』の作者として知られる「童話の王様」H・C・アンデルセン(アナスン)は、1805年4月2日、デンマークの中央部に浮かぶフュン島のオーゼンセに生まれました。父は貧しい靴職人、母は洗濯女として苦しい家計を支えていました……云々。小国の地方都市に生まれた詩人が『みにくいアヒルの子』よろしく世界的作家となって世界に雄飛するという手垢のついた立志伝を、そのまま語り直したところで芸がないというものです。はたまた、アンデルセンが火事を恐れるあまりどこへ旅するにも脱出用のロープをトランクに入れていたことや、イギリスにディケンズを訪ねた折の感情のすれ違い、その他数々のエキセントリックな言動についても、この場でご披露するには及ばないでしょう。

すでに幾多の評伝で面白おかしく紹介されているその種の珍談を繰り返さずとも、アンデルセンにはまだまだ光が当てられていない謎が多く残されているのです。そもそも彼は、あの創作童話というジャンルをどうして選ばなければならなかったのか、童話の着想はどこから汲み出されたのか、そしてそれらの主題は後世の人々にどのように受け止められたのか……考えるに価することは数えきれないぐらいあるはずです。

これから6回にわたって、読者のみなさんとともにアンデルセンの事績をたどることになります。私たちは、知っているようで知らないアンデルセンと出会い直すことで、ありがちな観光案内や現地生活者のリポート記事には映し出されない異貌のデンマークを覗き見ることができるはずです。それはまるで、おとぎ話を読むときのような、憧れと予感に満ちた体験になることでしょう。各回の文章が、アンデルセンのタイムトリップ物語さながら、異他なる時空間へ旅するための「幸福の靴 Lykkens Kalosker」となることを願ってやみません。

だから、もういちど、はじめてアンデルセン童話をひらいた子どものような気持ちで言い直したいのです——さあ、お話をはじめましょう!

 

参照文献

Kofoed, Niels: Løvens bastion – Foredrag og essays fra et H. C. Andersen-år. C. A. Reitzel 2006.

著者紹介 / 奥山裕介(おくやま ゆうすけ)

1983大阪府生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。デンマークを中心に近代北欧文学を研究。共著に『北欧文化事典』(丸善出版、2017年)、訳書にマックス・ワルター・スワーンベリ詩集『Åren』(LIBRAIRIE6、2019年)とイェンス・ピータ・ヤコブセン『ニルス・リューネ』(幻戯書房、2021年)がある。

第1回 「靴屋と劇場」 

アンデルセンが産声をあげた19世紀の初め、デンマークは総人口100万人に満たない田舎じみた小国でした。首都コペンハーゲンの人口は10万人で、これもなかなかこじんまりとした世界なのですが、アンデルセンの故郷オーゼンセは国内第二の都市ながら人口はわずか6千人に過ぎず、首都とのあいだに大きな隔たりがありました。

この小さな世界に生きたアンデルセンの父ハンス・アナスン(Hans Andersen 1782-1816)は、貧しい古靴修理職人だったといわれます。けれども、彼が中世以来の同職組合(laug)に属さない自由職人(frimester)だったことに注意を向ける人は多くありません。1855年に書かれたアンデルセンの自伝の冒頭近くで、はっきりそのことが書かれています。住民の半分が職人で占められたこの狭小な町に住みながら、同職者団体の外部に身を置いた男は、貧しいばかりでなく周囲から浮いた存在だったのかもしれません。「アヒルの池」の外へ飛び出そうとするアンデルセンのアウトサイダー的気質は、父から引き継がれたものだったのかもしれません。

アンデルセンは父について、「22歳になるかならないかの、驚くほど天分に恵まれた人で、真に詩的な才質だった」と回顧しています。中近世ドイツ史の研究者によると、肉体的負担が比較的軽く室内で過ごす時間の長い靴職人には、豊かな空想性や独特な宗教観を備えたインテリ肌の人物が多くいたようです。マイスタージンガーとして知られるハンス・ザックス(Hans Sachs 1494-1576)がその好例ですね。オーゼンセのアナスンも、靴職人の徒弟修行に出される前はラテン語学校に進学することを望んでいた秀才で、工房での作業のかたわら書物の魔力に取り憑かれ、非日常の世界へと心を遊ばせる風変わりな人物だったのでしょう。たとえば、息子アンデルセンが呱々の声をあげようとするまさにそのとき、父は産褥の妻のそばで国民的喜劇作家ルズヴィ・ホルベア(Ludvig Holberg 1684-1754)の本を声高らかに読み上げていたといいます。また、休みの日には息子のためにラ・フォンテーヌの『寓話』や『千夜一夜物語』を読み聞かせ、文学的想像力の種を植えつけます。

父が笑顔を見せた場面としてアンデルセンの記憶に残っているのは、唯一この朗読のひとときだけでした。鬱勃とした激情を持て余していたこの靴職人は、デンマークの同盟国フランスから現れた英雄ナポレオンの軍卒になるべく旅立ちますが、ホルシュタインまで行ったところですでに戦争は終結、1814年に諸隊とともに故郷へ帰参し、ほどなくして世を去りました。全欧的な英雄に憧れながら小さな日常世界の外に出ることが叶わなかった彼は、「アンデルセンになれなかったアナスン」といえそうです。
父の影響で頭のなかが物語への夢でいっぱいになったアンデルセンは、貧民学校の生徒に入れられても授業が頭に入らず、放心しているのかと思えばいきなり素っ頓狂な言葉を発するという有り様でした。読み書きが苦手なのにギリシャ悲劇や神話に熱中し、お手製の人形芝居の創作までやってのけます。独力で台本を書く力はありませんでしたから、ルター派国教会の標準的な教理問答集として使われたN・E・バレ(Nicolai Edinger Balle 1744-1816)の教本から抜き書きして台詞の代わりに用いたといいます。正規の市民教育の枠から外れた位置にいながら、キリスト教からも古代神話からもありあわせの材料を引っ張ってきて物語世界を生み出すブリコラージュの才質がすでに芽を出していました。11歳になると、亡父から読み聞かせられたホルベアよりも、シェイクスピアを好んで読み始めます。

父の朗読の声が響きわたっていた仕事場はさながら家庭劇場でした。当時オーゼンセには、北欧唯一の地方都市としては唯一の常設劇場が置かれていました。とはいえ、人材や出し物の多くはコペンハーゲンの王立劇場やドイツ諸都市からの巡演に負っていました。1818年にオーゼンセが王立劇場の巡演を迎えた折、アンデルセンは看板もちの男と気安く口をきく仲になり、端役で舞台出演まで果たしています。これを境に、バレエの『灰かつぎ』やデンマークの国民詩人エーダム・ウーレンスレーヤ(Adam Oehlenschläger 1779-1850)の戯曲を知り、みずからの進むべき世界が首都の演劇世界にあることを自覚しました。のちにアンデルセンが作った切り紙細工には、バレエや影絵芝居といった舞台情景を象ったデザインが多くみられます。綱渡りや梯子乗りの曲芸やパントマイム劇といった祝祭的驚異が目を奪っては消えていく夢のような光景が、異国への憧れを掻き立てたのでしょう。靴屋の息子にとって舞台とは、社会的上昇の可能性を夢みさせるとともに、物語世界の原型を用意したのです。

オーゼンセ劇場は、首都の王立劇場からもドイツやイタリアの移動劇団からも巡演を迎えていて、さながらスカンディナヴィアとヨーロッパの文化的な接触点ともいうべき空間でした。当然、文化の境界閾ならではの騒動もしばしば出来します。1757年、ヨハン・クンニガー(Johann Kunniger)というドイツ人の舞台監督が一座を引き連れオーゼンセに巡業に訪れたときのこと。町の薬屋に併設された飲み屋にいたこのドイツ人に向かって客のひとりが、外国語の芝居なんか見せて儲かるのかねと尋ねます。相手を自分と同じドイツ人と思い込んだクンニガーが相好を崩して答えていわく、「馬鹿なデンマーク人どもには何でもいいから見せておけば、簡単に満足してホイホイ金を出してくれるんだよ」。この発言はたちまち町中に知れわたり、ドイツ人の一座はとるものもとりあえず、散り散りになって町を去ったといいます。

ヨーロッパの中でデンマークの文化水準が低く位置づけられていた事情が窺われる挿話ですね。アンデルセンはやがてこの小さな世界から飛び出し、コペンハーゲンを経てドイツへ、そして東方世界と、未知なる大きな世界にぶつかりながら世界的作家へと成長していきます。それはまたこの後のお話ということで。

 

参照文献

参照文献
阿部謹也『中世の窓から』、筑摩書房、2017年。
Andersen, Hans Christian: Mit Livs Eventyr. C. A. Reitzel 1855.
Binding, Paul: Hans Christian Andersen – European Witness. Yale University Press 2014.
Dyrbye, Holger / Thomsen, Jørgen / Wøllekær, Johnny: I kunsten kan livet kendes – Odense Teater i 200 år. Odense Teater 1996.
Kofoed, Niels: H. C. Andersen – den store europæer. C. A. Reitzel 1996.

著者紹介 / 奥山裕介(おくやま ゆうすけ)

1983大阪府生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。デンマークを中心に近代北欧文学を研究。共著に『北欧文化事典』(丸善出版、2017年)、訳書にマックス・ワルター・スワーンベリ詩集『Åren』(LIBRAIRIE6、2019年)とイェンス・ピータ・ヤコブセン『ニルス・リューネ』(幻戯書房、2021年)がある。

第2回「アラディンはデンマーク人」 

14歳にして俳優を志して故郷を出たアンデルセンは、181996日に「私の世界都市(min Verdens Stad)」コペンハーゲンの西門をくぐりました。ローカルな牧歌的世界から抜け出て近代ヨーロッパの玄関口に立ったこの少年の目に、ただならぬ光景が飛び込んできます。街じゅうにあふれた群衆が、ユダヤ人の営む商店を破壊する、騒然たる有り様。「ユダヤ闘争(Jødefejden)」と呼ばれる排他的運動が高潮していた頃で、アンデルセン到着の前晩にも暴動が起こったばかりでした。1807年の英国海軍によるコペンハーゲン砲撃、1813年の国家破産宣言、翌年のノルウェーの独立といった国家威信の後退の原因をユダヤ人に求める風潮が根強く広がっていたのです。

暴徒が発する「Hep! Hep!」という喚声はドイツ諸地域のユダヤ人迫害騒擾で用いられた掛け声で、ハンブルクを経てデンマークに伝播したころには、もはや意味のわからぬまま模倣されていたということです。故郷オーゼンセと同じく、ここでも外部世界の他者に敵愾心を露わにする人々の姿がありました。

ここでさらに時代を遡りますと、18世紀のデンマークの政治・文化は、国王侍医から摂政に上った啓蒙主義者ヨハン・フリードリヒ・ストルーウンセ(Johann Friedrich Struensee 1737-1772)や詩人クロプシュトック(Friedrich Gottlieb Klopstock 1724- 1803)といったドイツ語圏出身者が主導的な位置を占めていました。ところが、ストルーウンセが保守的なデンマーク貴族の憎悪を買って八つ裂きの刑に処されたことを境に、デンマークでは外来思想への警戒と排外感情が一挙に高まります。

とはいえ、18世紀後半のデンマークにおけるドイツ人サークルが、この周縁世界で啓蒙と古典主義の展開に決定的な推進力を与えたことは間違いありません。クロプシュトックの影響下に出発したヨハネス・イーヴァル(Johannes Ewald 1743-1781)は、北欧の古伝承に取材した詩劇『バルドルの詩Balders Død』や(1775年)『漁夫たちFiskerne』(1779年)のほか王室歌「クリスチャン王は高きマストのそばに立つKong Christian stod ved højen Mast」(1779年)の原詩を書き、次代の国民ロマン主義の基礎を築きました。またイェンス・バゲセン(Jens Baggesen 1764-1826)は旅行記『迷路Labyrinten』(1794年)で、フランス革命期のヨーロッパの動揺を背景にドイツ系文人との交流を鮮やかに描いています。

このような言語越境的な文化状況の爛熟期に生まれながら、19世紀に入って決定的な転換をもたらした詩人が、エーダム・ゴトロープ・ウーレンスレーヤ(図1:Adam Gottlob Oehlenschläger 1779-1850)でした。コペンハーゲン西郊のフレゼリクスベア城近くの門のそばに生まれた彼は、オルガン奏者の父の庇護者であったドイツ系貴族アダム・ゴットロープ・モルトケ伯爵に因んで命名されました。コペンハーゲンの内と外、デンマークとドイツの境界に生きる彼は、同じく文化的な中間領域に立つアンデルセンに、多大な影響を及ぼすのです。

ウーレンスレーヤが詩人として開眼したのは1802年のこと。当時、イェーナで学んだノルウェー人自然哲学学者ヘンリック・ステッフェンス(Henrich Steffens 1773-1845)が、コペンハーゲンのイーラス高等学校で授業を行ないました。教場にはウーレンスレーヤのほか、ステッフェンスの従弟でのちに国民高等学校運動を起こすN・F・S・グロントヴィ(Nicolai Frederik Severin Gruntvig 1783-1872)や、ヘーゲル批判の先駆者として後年キェルケゴールを導くF・C・シバーン(Frederik Christian Sibbern 1785-1872)の姿もありました。19世紀デンマークの文学・科学・思想に巨大な足跡を残すことになる若者が、この授業で机を並べていたのです。デンマーク文学史における古典主義とロマン主義の全盛期、いわゆる「黄金時代(Guldalderen)」はここに始まりました。

哲学方面への苦手意識を自覚するウーレンスレーヤでしたが、ステッフェンスとは不思議と馬があったようです。午前11時にステッフェンスの仮寓先で話し込んでから、深夜3時まで文学や芸術について談論を続けることもありました。ときにはリヒターなる商人のもとでビーフステーキとワインのご馳走にあずかり、フレゼリクスベア庭園から南のスナマーケン公園(Søndermarken)を抜けてコペンハーゲン本市のステッフェンス宅まで散策することもあったといいます。

文字どおり明けても暮れてもステッフェンスとともに濃密な議論を積み重ねたウーレンスレーヤは、詩「黄金の角杯Guldhornene」(1802年)で資質を開花させます。コペンハーゲンの博物館から盗み出された古代の角杯は、キリスト教改宗以前の土俗文化の象徴であるとともに、「自然」と詩の有機的な結びつきを追求するウーレンスレーヤ自身の文学的抱負を仮託したモティーフでもあります。消失した角杯があどけない農村の少女の手で掘り起こされる様子を生き生きと歌いあげたこの詩は、18世紀にドイツ語圏からもちこまれた理性主義の影響を脱して人間本性(Natur)への回帰を訴える作品として受け止められました。理性に偏重して純粋なポエジーを置き去りにした先行世代への反発は、いつしかドイツ文化への忌避感情へと結びつきました。ウーレンスレーヤ自身はドイツの初期ロマン派文学の影響下に出発し、ドイツ語圏での成功を望んでいたようですが、同時代のデンマーク・ナショナリストたちは北欧の言語文化の特殊性を宣揚するアイコンとしてウーレンスレーヤを利用し、ドイツ諸邦に対する領土的主張を尖鋭化させていくのです。このようにスカンディナヴィア民族精神への回帰と子どもの純真性を理想化し、そこに国民的規範を求める国民ロマン主義の潮流に、後年のアンデルセン童話も同調することになるのです。

ステッフェンスの自然哲学は、自然界の諸事物と人間本性を有機的に連関させる詩の働きを確信させた点で、ウーレンスレーヤの芸術的成長に決定的な推力を与えました。しかしながら、ウーレンスレーヤからみればステッフェンスもまた自然から切り離された観念世界の限界を超えることのできない内省家である点で、みずからの芸術の理解者としては不満の残る相手と見えたようです。『千夜一夜物語』に題材を仰ぎ、「黄金の角杯」と同時期に発表された詩劇『アラディンAladdin』は、東方のイスファハーンに舞台をとりながら、同時代のコペンハーゲンの文学状況、とりわけウーレンスレーヤ自身とステッフェンスやバゲセンのようなドイツ思想に親和的な先行世代との関係を強く反映した作品です。

子どものように純粋無垢なアラディンは、知恵者のヌレディンの助言にしたがい洞窟に潜入し、あらゆる願いを叶えてくれる魔法のランプを手にします。ひとたびランプをヌレディンに奪われますが、ランプの精霊はアラディンの純真な魂にしか従うことはありません。アラディンはみずからの本性に導かれるままランプを取り戻し、精霊に命じて魔法の城を得て、恋人グルナーと幸福な人生を送ります。

ランプの精霊こそロマン派の理想とする天才的詩情のメタファーであり、これを馳駆するアラディンは「自然」から直接インスピレーションを承ける天与の才能を体現しています。また、貧しいアラディンに富をもたらす精霊は、個人の才覚と契約関係次第で極端な階級移動を可能にする近代資本主義の魔力をも象徴しています。

本性の赴くところを疑わず、自然の諸力を味方につける幸運児を文学的に理想化し、ヌレディン型の理知を詩心の障害として否定的に描くことで、このドラマはその後のデンマーク文学における純真性優位の方向を決定づけました。作品が打ち立てたドグマは同時代の文学状況の価値規範を決定づけ、ステッフェンスやバゲセン、イーヴァル、シャク・フォン・スタフェルト(Schack von Staffeldt 1769-1826)のようなドイツ語圏の影響下から出発した思想家や詩人は周縁に追いやられることになります。

「黄金時代」の後期に出発したアンデルセンはウーレンスレーヤに熱狂的に憧れ、彼からの評価をたえず気にかけていた様子が自伝からも窺われます。最初の童話集(1835年)の劈頭を飾る『火打箱Fyrtøjet』は、主人公の兵士が魔女から強奪した火打箱を使って目玉の大きな犬たちを呼び出し、その力を借りて金もお姫様も思いのままに手に入れるお話で、『アラディン』に範をとった作品ともいわれます。

ウーレンスレーヤもアンデルセンも、自然の諸力と契約を結ぶことで運命を切り開いていく物語を創造した点で、個人の才覚や幸運によって駆動される楽観主義の体現者であり、近代市民社会が待望する物語を用意したといえます。ただし、世代的に遅れて登場したアンデルセンは、19世紀中葉に差しかかって資本主義の矛盾に直面し、ウーレンスレーヤ以来の「幸運児」像の改変に迫られます。『火打箱』から11年後に発表され、2年後童話集に収められた『マッチ売りの少女Den lille Pige med Svovlstikkerne』は、幸福をもたらすマジックパワーとは無縁の無産階級に光を当てた作品です。聖夜の街頭で誰にも顧みられず永遠の眠りにつこうとする少女。その目蓋に幸福な幻想を描き出す燐寸の灯は、アラディンのランプと兵士の火打箱に連なる無垢なる子ども心の媒介であると同時に、工業化社会の生み出した貧困の象徴でもあります。

近代世界の遍歴へ乗り出した矢先にユダヤ人迫害の光景を目撃したアンデルセンは、その後も19世紀ヨーロッパの生み出すさまざまな矛盾に直面しながら、独自の作品世界を生み出していきます。次回は、アンデルセンと外国の関わりについて、彼の南欧旅行の経験を元にお話しすることにしましょう。

 

参照文献

参照文献

Albertsen, Leif Ludwig: “»Was kann von Nazareth Gutes kommen?«. Oehlenschlägers deutsche Erfolge”. i: Detering, Heinrich / Gerecke, Anne-Bitt / de Mylius, Johan (red.): Dänisch-deutsche Doppelgänger. Transnationale und bikulturelle Literatur zwischen Barock und Moderne. Wallstein 2001, s. 134-146.

Andersen, Vilhelm: Adam Oehlenschläger, et livs poesi Ⅱ. Nordiske forlag 1899.

Behschnitt, Wolfgang: “Aladdin und der romantische Dichter. Adam Oehlenschlägers Aladdin-Drama als dänische und deutsche Orientphantasie”. i: Bogdal, Klaus-Michael (red.): Orientdiskurse in der deutschen Literatur. Aisthesis 2007, s. 163-181.

Blödorn, Andreas: Zwischen den Sprachen. Modelle transkultureller Literatur bei Christian Levin Sander und Adam Oehlenschläger. Vandenhoeck & Ruprecht 2004.

Davidsen, J.: Fra det gamle Kongens Kjøbenhavn. Gyldendal 1881.

Eaton, J. W.: The German Influence in Danish Literature. The German Circle in Copenhagen 1750-1770. Cambridge University Press 1929.

Jessen, Mads Sohl: “Det naive og sentimentale geni. Om Schillers og Goethes betydning for Oehlenschlägers og Baggesens satiriske konflikt 1802-1807”. i: Danske Studier 2014, s. 144-167.

Oehlenschläger, Adam: Erindringer Ⅰ. Andr. Fred. Høsts Forlag 1850[1830].

Oxfeldt, Elisabeth: Nordic Orientalism. Paris and the Cosmopolitan Imaginations 1800-1900. Museum Tusculanums Forlag 2005.

Tatar, Maria (red.): The Annotated Hans Christian Andersen. W. W. Norton 2008.

Volquardsen, Ebbe: “Die Orange im Turban. Über die Funktionen von Orientrepräsentationen in der dänischen Literatur des 19. Jahrhunderts” i: TijdSchrift voor Skandinavistiek vol. 31, nr. 2. 2010, s. 99-126.

Zerlang, Martin: Bylivets kunst. København som metropol og miniature. Spring 2002.

著者紹介 / 奥山裕介(おくやま ゆうすけ)

1983大阪府生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。デンマークを中心に近代北欧文学を研究。共著に『北欧文化事典』(丸善出版、2017年)、訳書にマックス・ワルター・スワーンベリ詩集『Åren』(LIBRAIRIE6、2019年)とイェンス・ピータ・ヤコブセン『ニルス・リューネ』(幻戯書房、2021年)がある。

第3回「南へ」 

 

14歳で俳優を志しコペンハーゲンに渡ったアンデルセンは、その後作家に転じてから29回の外国旅行を経験しています。「旅することは生きること(At reise er at leve)」という言葉を遺し、小国デンマークのムラ社会の外へ幾度となく飛び出したアンデルセンは、未知なる異国で脳裏に刻まれた鮮烈な印象を、数々の紀行文学に結実させています。その最初の試みが、コペンハーゲンの市壁を抜けて運河を越えた先にあるアマー島へ足を伸ばした体験を語る『1828年と1829年のホルメン運河からアマー島東岬までの徒歩旅行』です。アマー島は16世紀のクリスチャン2世の施策でネーデルラント農民を入植させてから、コペンハーゲン市民のあいだでは一種エキゾティックな田園エリアとみられていました。市民的日常の隣にあったこの内なる「異郷」への旅は、ロケーションの特異性もさることながら、若く荒削りなアンデルセンの手にかかると、内面の混沌を惜しみなくさらけ出したような奔放な筋立てで再現されます。E・T・A・ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann 1776-1822)を意識した、奇想天外なイメージの氾濫は、後年の童話世界を予感させる脳内のドキュメントともいえます。実人生と虚構の境を自在に往還する旅行文学作家としてのキャリアもまた、ここから始まりました。

1831年には、ハインリヒ・ハイネの『ハルツ紀行Harzreise』(1826年[執筆は1824年])に触発されてドイツへ赴きます。このとき、ドレスデンで精力的に朗読会を催していたロマン派のルートヴィヒ・ティーク(Ludwig Tieck 1773-1853)を訪ね、またベルリンでは詩人で博物学者のアーダルベルト・フォン・シャミッソー(Adalbert von Chamisso 1781-1838)の知遇を得ました。この旅の印象は、同じくハイネの『旅の絵Reisebilder』(1826-31)を意識した韻文まじりの紀行『1831年夏のハルツ、ザクセン・スイスその他をめぐる旅の影絵』に綴られています。ドイツ各都市の文学者を訪ね歩いて国外での人脈を誇示する様子は、前回紹介したバゲセンの『迷路』の影響が濃厚です。しかしながら、彼の最大の転機となったのは、何といっても1833年から1834年の旅です。行く先はイタリア。ゲーテの足跡をたどる道行きです。

ここで旅行文化の歴史を振り返っておきたいのですが、そもそもヨーロッパにおける外国観光の起源は、16世紀のイングランドに発祥した「グランドツアー」と呼ばれる古典的な旅行形態に遡ります。この時代の外国旅行は、若い貴族子弟の修行の機会という性格が強く、ルネサンス期の大陸ヨーロッパで見聞を広めさせることが目的でした。最終目的地であるイタリアでは、古代ローマやギリシャ植民市の時代を伝える遺物が待ち受けています。少壮貴族たちは、ヨーロッパ文化の知的基盤に触れるなかで、領地経営者としての見識、また政治家としての威信を身につけることを期待されたのです。
下って17世紀から18世紀にかけて、グランドツアーはヨーロッパ全域の貴族層にいっそう馴染み深い教育イベントとなりました。このあたりから、出立前から古典作家の作品をラテン語・ギリシャ語の原文にあたって予習しておく習慣が根づいたほか、若様の指南役の任を帯びたお付きが同道し素行を監督するなど、いっそう周到な準備が行なわれます。
そして18世紀後半のゲーテのイタリア旅行のころから、市民階層のとりわけ芸術を志す若者の南欧漫遊が、デンマークでも徐々に盛んになりました。19世紀に入ると、ドイツ諸邦を経由してイタリアを目指す「教養旅行(dannelsesrejse)」が詩人や画家のあいだで主流となり、芸術的成長の契機となります。アンデルセンの後援者となり、前述のティークを彼に紹介した詩人のB・S・インゲマン(Bernhard Severin Ingemann 1789-1862)も、1818年から翌年にかけて王室の援助でイタリア旅行を経験しています。デンマークに帰ったインゲマンは、ゲーテへのオマージュともいうべき戯曲『タッソーの解放Tassos Befrielse』(1819年)を出し、ついで『ソールーの祭壇画Altertavlen i Sorø』(1820年)や『マリーイ叔母さんMoster Marie』(1820年)など、庶民の日常生活に取材した詩的リアリズムへと傾斜します。周縁ヨーロッパの出身者にとって、「教養旅行」はヨーロッパの芸術遺産にアクセスする窓口でした。それは同時に、民衆の何気ない素朴な生活のうちに芸術創作の資材を発見するという、美的な価値転換の場ともなったのでした。

「教養旅行」がデンマークの芸術家青年のあいだで広まりだすと、イタリアにはデンマーク人のコミュニティが形成されます。ローマ在住の彫刻家ベアテル・トーヴァルセン(Bertel Thorvaldsen 1770-1844)を慕うアンデルセンは、彼を尋ねてそのサークルの一員となります。長年にわたりデンマークを離れて活動するトーヴァルセンの言葉は、故国での冷評に傷つきやすいアンデルセンを大いに慰めました。
アンデルセンのイタリア滞在中の日記を読むと、各地の画廊や美術館を熱心に見て回っていた様子が窺われます。紙面のあちこちには、雄大な自然を背景にした建築のスケッチが拙い筆致で描かれています。高緯度地域の北欧ではめったに体験できない明朗な自然と古典芸術への渇望を性急に満たす、若者の愉悦がそこに爆発しているようです。
ところが、汲めども尽きぬ芸術的歓喜を暗転させる報せが、故国デンマークからもたらされます。スイス滞在中のアンデルセンがコペンハーゲンに送った詩劇『アウニーデと人魚Agnete og Havmanden』(1834年)が、批評家のみならず近しい友人からも酷評されたのです。とりわけ、アンデルセンの庇護者であった王室顧問官ヨナス・コリン(Jonas Collin 1776-1861)の息子イズヴァト(Edvard Collin 1808-86)からの批判は、彼を深く傷つけました。兄弟のような愛情で結ばれていたはずの親友から冷評をもって報いられたアンデルセンは、父ヨナスを介してイズヴァトに反論を書き送りますが、両者の関係が修復不能に至ることを恐れたヨナスは手紙を焼却します。

折しも故郷の老母の訃音がもたらされたころで、アンデルセンは悲嘆の暗闇に叩き落とされました。さらに、当時コペンハーゲンの演劇・出版界で絶大な発言力を得ていた詩人ヨハン・ルズヴィ・ハイベア(Johan Ludvig Heiberg 1791-1860)が、ヴォードヴィルの劇中でアンデルセンをこき下ろす一文を挿入しているという報せが伝わります。ヘーゲル美学の紹介者であるハイベアは、市民文化の洗練に貢献することが芸術作品の使命であると説き、作者の内で確立された体系的理念に裏づけられた形式美を求めました。この体系信奉の威力はすさまじく、パリから移入したヴォードヴィルは、ハイベアの創作理論を実践するのにもっともふさわしい劇形式として主流化していきます。アンデルセンが敬仰してやまないウーレンスレーヤの戯曲も、ハイベアが王立劇場の監督に就任すると同時に、没理念的として演目から排除されます。

哲学肌のハイベアからみて、文法や綴りの間違いなどお構いなしに奔放な空想の飛躍をみせるアンデルセンは我慢ならない異端児でした。基礎的教養を欠き、思想性も体系的理念も脱け落ちた傍流作家を、ハイベアは「即興詩人」として嘲ります。つまり、芸術メディアの主流から疎外された下位文化の徒輩であると宣告したのです。

しかし、ゲーテの『イタリア紀行Italienische Reise』(1816年)やジェルメンヌ・ド・スタールの『コリンヌ、もしくはイタリアCorinne, ou l’Italie』(1807年)に描かれる詩人の姿に親しんでいたアンデルセンは、即興詩が決して軽蔑されるべきものではなく、芸術の名にふさわしい独創的な娯楽であると考えました。これら零細な路上芸人こそ詩的空想と民衆生活の両方に根ざした真の芸術家なのだと確信していた彼は、友人への手紙でみずから積極的に「即興詩人」を名乗ってみせます。自らに向けられた嘲笑を逆手にとったこの諧謔精神が、彼の名をヨーロッパに知らしめる最初の長篇『即興詩人Improvisatoren』(1835年)へと結実するのです。

『即興詩人』は舞台をイタリアにとっていますから、デンマークの読者には遠い異国の青春生活を擬似体験させるファンタジックな作品と映ったでしょう。作中に描かれるイタリアの景物はひとつひとつが精彩に富んでいて、とりわけ結末に置かれたカプリ島「青の洞窟(Grotta azzurra)」の描写は息を呑むような神秘性をたたえています。主人公アントーニオは、若くして孤児となった貧しい少年ですが、詩才に恵まれ、富裕なボルゲーゼ家の庇護を受けることになります。アントーニオの悲恋と芸術的成長の物語はアンデルセン自身の体験を反映していて、周辺人物もコペンハーゲンの友人や芸術家、知識人をモデルにしているようです。
たとえば、伝道者学校時代のアントーニオが出会ったハバス・ダーダー(Habbas Dahdah)というアラビア風の名前の教師は、杓子定規な基準で学生の詩を添削する厄介な人物です。ペトラルカを賞賛する一方でダンテを貶めるこの学者先生の造形には、アンデルセンが若年期に出会ったふたりの難物が深く関わっています。ひとりはアンデルセンをこてんぱんに批判した文学史家クリスチャン・モルベク(Christian Molbech 1783-1857)、もうひとりはラテン語学校時代の暗い記憶を植えつけた校長スィモン・マイスリング(Simon Meisling 1787-1856)です。ちなみに、「ハバス・ダーダー」をラテン語もどき(pseudo-latin)の読み方で転記すると、“Habeas data” (ぶん殴られちまえdu skal have smæk)というほどの意味になるようです。自分を苦しめた故国の学者連に対して、作中世界で仇を討ったのですね。

アントーニオが遭遇する諸々の事件は、実のところデンマークにいたころのアンデルセンを取り巻いていた文学状況のカリカチュアであるといっていいでしょう。イタリアを舞台に仮構された物語空間で、アンデルセンは支配的な文学様式に適応できない「即興詩人」としての自己を大胆に解き放ったのです。

ここまで教養旅行から『即興詩人』の成立までをお話ししたのですが、今回のお話は見慣れない人物名が多出して長くなってしまいました。ここからいよいよアンデルセンが童話作家として世界に名を馳せるのですが、みなさんそろそろお疲れでしょう。続きはまた次回にお話しすることにします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参照文献

参照文献

Andersen, H. C.: Mit Livs Eventyr. C. A. Reitzel 1855.

Andersen, H. C.: Improvisatoren. C. A. Reitzel 1835.

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Andersen, Hans-Christian: “A Comet in a Cultural Constellation: Hans Christian Andersen and Literary Travel Practice in pre-Twentieth Century Europe”. i: Thomson, C. Claire / Carbone, Elettra (red.): Love and Modernity. Scandinavian Literature, Drama and Letters. Norvik Press 2014, s. 115-127.

Andersen, Hans-Christian: “Hans Christian Andersen Tourist? An Investigation of Etymology, Social History and Ideology”. i: Mylius, Johan de / Jørgensen, Aage / Petersen, Viggo Hjørnager (red.): Hans Christian Andersen – Between Childrens Literature and Adult Literature. University Press of Southern Denmark 2007, s. 149-165.

Binding, Paul: Hans Christian Andersen – European Witness. Yale University Press 2014.

Heltoft, Kjeld: Hans Christian Andersen as an Artist. Christian Ejlers’ Forlag 2005.

Kofoed, Niels: H. C. Andersen og Goethe eller Verdensåndens alfabet. C. A. Reitzel 2005.

Melberg, Arne: “South of the South. Literary Capri”. i: Dubois, Thomas A. / Ringgaard, Dan (red.): Nordic Literature. A comparative History. Volume: Spatial nodes. John Benjamins Publishing Company 2017, s. 109-122.

Olsen, Kåre / Topsøe-Jensen, H. / Lauridsen, Helga Vang (udg.): H. C. Andersens dagbøger 1825-1875 Ⅰ, 1825 – 1834. G · E · C Gads Forlag 1971.

著者紹介 / 奥山裕介(おくやま ゆうすけ)

1983大阪府生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。デンマークを中心に近代北欧文学を研究。共著に『北欧文化事典』(丸善出版、2017年)、訳書にマックス・ワルター・スワーンベリ詩集『Åren』(LIBRAIRIE6、2019年)とイェンス・ピータ・ヤコブセン『ニルス・リューネ』(幻戯書房、2021年)がある。

第4回「沼地に生えたオレンジの樹」

 ◆『即興詩人』はコペンハーゲンのライツェル社から刊行され、ドイツ語訳は複数回にわたり版を重ねました。もっともアンデルセンは、ドイツ語訳者ラウリツ・クルーセ(Lauritz Kruse 1778-1839)がつけた『あるイタリア詩人の青春生活と夢 Jugendleben und Träume eines Italienischen Dichters』という題には不満を呈したようですが。『即興詩人』は、以後10年ほどの間にスウェーデン語、英語(イギリス、アメリカ合衆国)、ロシア語、チェコ語、オランダ語、フランス語に翻訳されます。日本では原作から67年の時を隔てて、陸軍軍医・森鷗外による和漢洋の教養の結晶ともいうべき雅文訳『即興詩人』が出て、西洋への憧れを掻き立てました。アンデルセンがゲーテから受け取ったヨーロッパ古典世界のイメージは、ドイツ留学を経て小倉左遷に至った鷗外の手で10年がかりで仕立て直され、もうひとつの「周縁」日本に青春と芸術という近代の精神的発明をもたらしたのです。

『即興詩人』が出た1835年はまた、童話作家としてのアンデルセンの出発を飾る一年でもありました。5月8日、「小さいイーダの花 Den lille Idas Blomster」、「エンドウ豆の上に寝たお姫さま Prindsessen paa Ærten」、「小クラウスと大クラウスLille Claus og store Claus」、「火打ち箱 Fyrtøiet」を収録した最初の童話集『子どもに語るおとぎ話 Eventyr, fortalte for Børn』の第1巻が出ました。さらに同年12月16日に出た第2巻には、「旅の仲間 Reisekammeraten」、「いたずらっ子 Den uartige Dreng」、「親指姫 Tommelise」が収められています。動物や草花が人間のような意志をもって活動する世界、純真無垢な心の動きに感応して願いを叶えてくれる魔法の道具……。グリム兄弟の採集した民間の口頭伝承とは異なり、個人の内面問題を空想的なプロットに託した創作童話に、アンデルセンは自己表現の可能性を見出しました。それはまた、ハイベアによってシステム化された創作理論に順応できないマイナー詩人が選ばざるをえなかった、周縁的な文学形式ともいえるでしょう。彼の物語には、14歳で俳優を志しながら果たせず、劇作家の夢も絶たれた劇場からの疎外者としての自己像がそこかしこに投影されています。『即興詩人』に登場する薄幸の歌姫アヌンツィアータも、故郷オーゼンセで少年時のアンデルセンを魅了したドイツ人女優がモデルです。後年故郷を訪れたアンデルセンは、慈善病院の一室でみすぼらしい老婆と出会います。これこそ、かつて憧れた女優の落魄した姿であると知ったアンデルセンは、芸術家の栄光のはかなさ、運命のはかりがたさを思い知り、後年の童話にも通じる永遠のヒロイン像を生み出したのです。

『即興詩人』はたしかにアンデルセン最大の出世作となりました。ですが制作から発表の過程で、アンデルセンにこれほどアウトサイダーとしての自覚を刻印した作品もありません。1836年7月19日、アンデルセンは自らの熱烈な支持者であるヘンリエテ・ヴルフ(Henriette Wulff 1804-58)に宛てた手紙で、「僕は小さな国のために書く定めにあるのです」と暗いトーンで洩らします。「それは、沼地に生えたオレンジの樹になるということなのです。農夫はそれが酸っぱい林檎だと思って、渇きを癒し、樹が腐っていくにまかせるのです」……
南欧の陽光のもとで育ったオレンジの樹にみずからを喩える一方で、それが陰湿をきわめた北欧の芸術環境のなかで本来の天分が損なわれていくという被害感情がにじんでいます。イタリアの開放的な風土がもたらすインスピレーションから豊かな創作の果実を摘んだアンデルセンですが、『即興詩人』に対するデンマーク国内の批評は彼にとって冷淡なものが目につき、疎外感に蝕まれていたようです。

しかし一方で、アンデルセン自身がデンマーク国内での不遇を実際より誇大に伝えているとの指摘もあります。アンデルセンの自伝『わが生涯のおとぎ話 Mit Livs Eventyr』(1855年)は、『即興詩人』がひき起こした毀誉褒貶を事細かに伝えています。この強烈な自意識をもった作者は、他者からの賞賛を喜ぶ反面、望んだ通りの栄誉が得られなかったときの苦悶を克明に記憶していました。ですが、過去の屈辱に対する執着が事実を改変している可能性もないわけではありません。
アンデルセン没後に親友イズヴァト・コリンが出した回顧録『H・C・アンデルセンとコリン家 H. C. Andersen og det Collinske Huus』(1882年)は、自伝の作為性に注意を促しています。彼によると、アンデルセンはデンマーク国内での酷評され誤解された過去を「できるだけ黒々と描く」ことで、国外での声望をひときわ輝かしく印象づける傾向があったといいます。実際のところ『即興詩人』の作者は、「この本は僕の倒れた家を建て直し、友人たちを呼び戻し、その数を増やしてくれた」と、いたく喜んでいたといいます。
いずれにせよアンデルセンの内には、コペンハーゲンで築いた人間関係を維持したいという望みと、狭小な祖国から出てゲーテやシェイクスピアに伍する大詩人と仰がれたいというふたつの欲望が同居していたようです。デンマーク文学の主流に容れられない自己を持て余しながら、ネイション内部での安定と、外部世界への越境を同時に願うという、二重化された詩人像が生まれていきます。こののち壮年期に入って、この矛盾はいっそう深刻となるのですが、それはまた次回以後お話しすることになるでしょう。

 

 

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参照文献

Andersen, H. C.: Mit Livs Eventyr. C. A. Reitzel 1855.
Collin, Edvard: H. C. Andersen og det Collinske Huus. C. A. Reitzels Forlag 1882.
Houe, Poul: En anden Andersen – og andres. Artikler og foredrag 1969-2005. C. A. Reitzel 2006.
石川淳『森鷗外』、岩波書店、1978年[初版1941年]。
Kofoed, Niels: H. C. Andersen – den store europæer. C. A. Reitzel 1996.
森鷗外『即興詩人』、筑摩書房、1995年[初版1902年]。
Mylius, Johan de: “Der deutsche Andersen. Zur Grundlegung des biographischen Andersen-Bildes in Deutschland”. i: Detering, Heinrich / Gerecke, Anne-Bitt / Mylius, Johan de (red.): Dänisch-deutsche Doppelgänger. Transnationale und bikulturelle Literatur zwischen Barock und Moderne. Wallstein 2001, s. 157-173.
中野重治『鷗外 その側面』、筑摩書房、1994年。
Sanders, Karin: “A Man of the World: Hans Christian Andersen”. i: Ringgaard, Dan / Thomsen, Mads Rosendahl (red.): Danish Literature as World Literature. Bloomsbury 2018[Original 2017], s. 91-114.

著者紹介 / 奥山裕介(おくやま ゆうすけ)

1983大阪府生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。デンマークを中心に近代北欧文学を研究。共著に『北欧文化事典』(丸善出版、2017年)、訳書にマックス・ワルター・スワーンベリ詩集『Åren』(LIBRAIRIE6、2019年)とイェンス・ピータ・ヤコブセン『ニルス・リューネ』(幻戯書房、2021年)がある。

第5回「テクノロジーの魔法」

いきなり時代が飛びますが、世界にその名を知られた物理学者アルバート・アインシュタイン(Albert Einstein 1879 – 1955)は、ナチスの台頭を危ぶんで1932年に合衆国への移住を決しました。ドイツに残してきた息子宛ての12月23日の手紙には、科学的問題への熟察が綴られるとともに、最近読んだ本についても触れられています。スピノザの生涯などを含むそれらの本の中に、アンデルセンの童話も含まれていました。とりわけ印象に残ったのは、中国を舞台に皇帝と小夜啼鳥と機械仕掛けの鳥の関係を描いた「ナイチンゲールNattergalen」(1843年)だったといいます。

◆20世紀の天才科学者とアンデルセンをつなぐもうひとつ意外な接点をこのあとお話しすることになるのですが、実はアンデルセン自身が、近代科学に強い関心を示していたことにも触れておかないといけません。アンデルセンは、電流の磁化作用の発見者として知られる物理学者H・C・エアステズ(アアステズ, Hans Christian Ørsted 1777–1851)と親交を結び、科学的真理を追究する著作や実験内容から数々の童話の着想が得たのでした。たとえば、中期の童話「水のしずくVanddraaben」(1848年)がそうです。顕微鏡を覗きこむ科学者の視点を借りて、そこにうごめく微生物を人間世界、とりわけ大都市化するコペンハーゲンの群衆の姿になぞらえた戯画的な作品です。また、エアステズ本人への惜しみない尊敬を語った作品もあります。アンデルセン後期の小品「ふたり兄弟To Brødre」(1859年)では、法律家を経て政治家となり首相まで務めることになる弟アナス・サンウー・エアステズ(Anders Sandøe Ørsted 1778-1860)と並んで、のちの天才科学者の片鱗をうかがわせる少年の姿が空想的にスケッチされています。

◆第2回のコラムで紹介したウーレンスレーヤと地質学者ステッフェンスの関係にもいえることですが、自然界の秘密に迫ろうとする科学者との交流は、詩人の文学創作に大きな刺戟を与えるようです。アンデルセンにとってもうひとりの「ハンス・クリスチャン」であるエアステズは、そのような精神的指導者となりました。さらにいえば、ステッフェンスが万物の諸原理をあくまで非経験的な観念論の側から解き明かそうとする自然哲学の徒であったのに対し、実験によって事物の本性に迫るエアステズとの出会いはアンデルセンを近代作家へと変貌させる契機となりました。

◆前回の旅行文化のお話の続きになりますが、旅こそは科学と並んで未知の世界に詩人を導く経験でした。1841年になると、英国のトーマス・クック(Thomas Cook 1808-92)が旅行代理店を設立し、鉄道と結びついたパッケージツアーを普及させます。アンデルセンはこのような近代的な旅行文化の確立に前後して、1840年10月から翌年7月まで、ふたたび長期のヨーロッパ旅行に出かけています。ドイツ、イタリアといった彼にとってすでに親しみ深い国を再訪したのち、ギリシャ、トルコ、ドナウ河流域といった東方にまで足を伸ばした彼は、非ヨーロッパ世界との初めての接触を経験することになりました。旅の記録である『ある詩人のバザールEn Digters Bazar』(1842年)には、デンマークを出国した直後に訪れたハンブルクのホテルで、フランツ・リスト(Franz Liszt 1811-86)みずからフォルテピアノで《地獄のワルツValse Infernale》を演奏する場面が出てきます。このハンガリー出身の音楽家が生み出す「音のイメージ(Tone-Billeder)」は、非ヨーロッパ世界へと続く長い旅の序幕となって、それ以前に書かれた旅行記とはまったく異なる未知の世界との出会いをアンデルセンに予感させます。

◆東方への開眼と同時にこの旅で得た重要な経験は、先にも述べました鉄道との出会いです。最高時速40kmほどだった当時の汽車の窓から眺めた風景を、アンデルセンは詩人的な空想をまじえながらも正確な観察にもとづいて語っています。運動する事物を捉えた映画的ともいえる描写を、ちょっと読んでみてください。

「誰しも渡り鳥の飛翔を思い起こすことだろう。そんな風に、これから町から町をあとにすることになるんだ。側道で見かける普通の乗り物は静止しているみたいに思える。馬車に繋がれた馬たちは脚を上げてはいるが、同じ場所で繰り返し足踏みしているように見える。そうして、われわれはそれらのものを通り過ぎていくのである。」(Andersen: 1842, s. 27-28)

◆移動する列車の客室から駆歩する馬を眺めると脚を上げて静止しているようにみえるという観察は、1878年に英国の写真家エドワード・マイブリッジ(Eadweard Muybridge 1830-1904)が撮影した、疾走中の馬の運動写真、いわゆるズープラクシスコープ(zoopraxiscope)を想起させます。事物とスピードの関係に注目するアンデルセンの描写は、ごく素朴ではありますが、映画誕生の間接的ヒントとなったこの連続写真を先取りするものです。そればかりか、アインシュタインが特殊相対性理論を発表する半世紀以上も前に、観察者の位置が移動することによって対象物の動きの見え方が変わるのだという自然界の秘密を言語化しています。事物の固定された状況ではなくまさに変動しようとする瞬間に着目したこのような言語技法は、アンデルセンの死後のデンマーク文学を担うリアリズム作家たちにも継承されました。

◆では、アンデルセンだけが例外的に近代に接触したのかというと、答えは否です。『ある詩人のバザール』が書かれたほぼ同時期、ヨーロッパの周縁であるデンマークに蒸気機関と異国情緒を結びつける一大発明が登場します。1843年にコペンハーゲン西の市壁外に開設されたティヴォリ公園です。園内には、イスラーム風の舶来品売り場〈バザール〉やコンサートホール、パントマイム劇場、蒸気機関で動く回転木馬、ローラースライダー(Rutschebanen)といった雑多な娯楽設備を配置したうえ、パゴダや中国風ランタンを飾り、孔雀を歩き回らせて異国情緒を演出しました。格式ある王立劇場に比べて入場料は圧倒的に安く、ドレスコードはなし、各種見世物は立ち見が許されていましたから、少しお金に無理をすれば労働者もブルジョワと同じ歓楽に浴することができたといいます(深みにはまりすぎて生活が無軌道化する者もいたようですが)。

◆エキゾティシズムとテクノロジー、消費とスピード、階級移動の夢へと人びとを駆り立てるこの19世紀的欲望の投影図ともいうべき空間は、ヨーロッパの周縁で静かな日常を生きていた市民に近代を擬似経験させる教育装置でもありました。いってみれば、人口10万人程度の田舎都市の隣に近代ヨーロッパが忽然と姿を現したようなものですから、そのインパクトは絶大です。市の西門(Vesterport)周辺には、ティヴォリへと向かう雑多な階級からなる群衆が渦をなしてひしめきました。群衆は夜になっても帰ろうとせず、王室が規定する閉門時間をそのせいで変更しなければならなくなったといいます。アンデルセンが異国の風土や科学との接触を経て近代作家へと成長を遂げたように、コペンハーゲン市民も近代に開眼し、新しい世界の訪れを予感して興奮していたのですね。フランスのような革命をついに経験することがなかった北欧の王国において、娯楽空間ははからずも市民のパワーを誇示する強力なメディアとなりました。
◆さらにアンデルセンの後の世代にあたる1870年代には、工業化の進展や都市への人口集中にともないコペンハーゲンを囲む市壁が撤去されます。これを機に、都市の外郭部にあったティヴォリ公園は中心街と一体化して一大消費区域を形成します。その後は、産業博覧会や人種博覧会の開催、ナチス占領時代の破壊、戦後復興といった明るいばかりではない歴史をたどりながら、現存する世界最古のアミューズメントパークとして今も存続しています。(図は、1840年代当時のティヴォリ)

◆異国趣味やテクノロジーに大きな関心を寄せるアンデルセンは、この公園の開設時から当然のごとく多大な関心を示しています。1843年10月11日の手記には、「ティヴォリにて、カーステンセンの夕べ。中国の物語を書きはじめる」とあります。カーステンセンとは、ティヴォリ公園の創設者ギーオウ・カーステンセン(Georg Carstensen 1812-57)のことです。手記の日付はティヴォリ開設後初めての営業シーズンの最終日にあたり、国内では未聞の事業をなしとげたカーステンセンの功績をたたえて盛大にフィナーレが祝われたのでした。翌日のアンデルセンの手記にはすでに「中国の物語を書き終える」という記述がみられますから、ティヴォリで着想を得てから2日で童話を書き上げたことになります。後年アインシュタインにも読まれることになる中国を舞台にした童話「ナイチンゲール」はこうして完成し、この年の11月刊行の『新童話集Nye Eventyr』に収録されます。テクノロジーの産物である機械仕掛けの鳥の歌と、自然から生まれた鳥の歌のどちらを美的に上位とするかという問いを含んだこの作品は、近代の曙光を迎えつつあったコペンハーゲンの都市生活の変貌を、異国の情景に仮託しながらリアルタイムで映し出した物語といえるでしょう。

◆ちなみにこの1843年は、哲学者セーアン・キェルケゴール(Søren Kierkegaard 1813-55)が偽名著作集『あれか=これかEnten-Eller』を発表し、在野の著作家として本格デビューを飾った年でもあります。その中の一篇「誘惑者の日記Forførerens Dagbog」は、ロマンティック・ラヴを求めてコペンハーゲンをさまようヨハネス青年の観察と告白を通して、都市の日常が異国風の形象に塗りかえられていく幻視的なヴィジョンを語っています。当時パリなどにみられた〈遊歩者(flâneur / Flanør)〉のデンマーク版ともいうべき異様な都市散策者の告白は、キェルケゴールの特殊な内面経験に根ざしてはいても、転換期を迎えていた同時代の市民社会とも共鳴していたでしょう。アンデルセンは、カーステンセンやキェルケゴールといった異才と同じ都市に生き、近代の足音をいちはやく捉えていたのです。

◆ところでこう書きながらふと思うのですが、ここまで書き継いできた私のお話はいずれも肝心の童話の中身にいまいち立ち入っておらず、読者のなかには食い足りない思いをされている方もいらっしゃるかもしれません。アンデルセンの生涯のうわべをなぞるだけでは、本当に彼の頭の中にひろがる世界にふれたことにはならず、研究者としても張り合いのないものです。さらにいえば、文学研究というのが具体的に何をするものなのか、この機会に少しだけわかっていただいた方がいいような気もするのです。

というわけでこの次のお話は特別回としまして、先ほども名前をあげました「ナイチンゲール」が1843年のコペンハーゲンのリアリティをどのように切り取っていたのか、そのあたりをお話ししてみたいと思います。

 

【お知らせ】奥山裕介先生が『ニルス・リュ-ネ』(写真左;イェンス・ピ-タ-・ヤコブセン著、奥山裕介訳、幻戯書房刊)を上梓されました。イェンス・ピ-タ-・ヤコブセン(1847-1885)は、夭折の詩人で、『ニルス・リューネ』の翻訳は山室静訳『ヤコブセン全集」(青蛾書房、1975年)以来46年ぶりの新訳です。

 

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参照文献

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Andersen, Hans Christian: Almanaktekster for året 1843. Syddanmark Universitet / H. C. Andersen Centret[https://andersen.sdu.dk/liv/almanak/almanak.html?aar=1843, 2021年6月14日閲覧].
Brix, Hans: H. C. Andersen og hans Eventyr. Det Schubotheske Forlag 1907.
Christensen, Dan Ch.: Hans Christian Ørsted – Reading Nature’s Mind. Oxford University Press 2013.
Haugsted, Ida: Tryllehaven Tivoli – Arkitekten H. C. Stillings bygninger og den ældste have. Museum Tusculanums Forlag 1993.
Kierkegaard, Søren: Enten-Eller 1. i: SKS 2=Søren Kierkegaards Skrifter 2(red af. Cappelørn, Niels Jørgen / Garff, Joakim / Kondrup, Johnny /  McKinnon, Alastair / Mortensen, Finn Hauberg). Søren Kierkegaard Forskningscenteret 2012[Original 1843, http://www.sks.dk/EE1/txt.xml, 2021年6月15日閲覧].
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Kragh, Helge / Kjærgaard, Peter C. / Nielsen, Henry / Hvidtfelt Nielsen, Kristian (red.): Science in Denmark – A Thousand-Year History. Aarhus University Press 2008.
Oxfeldt, Elisabeth: Journeys from Scandinavia. Travelogues of Africa, Asia, and South America, 1840-2000. University of Minnesota Press 2010.
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Pattison, George: Kierkegaard and the Quest for Unambiguous Life. Between Romanticism and Modernism. Oxford University Press 2013.
Pattison, George: Kierkegaard, Religion and the Nineteenth-Century Crisis of Culture. Cambridge University Press 2002.
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高山宏「悪魔のルナパーク」、『夜想 7 特集 世紀末』、1982年、12-59ページ。
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著者紹介 / 奥山裕介(おくやま ゆうすけ)

1983大阪府生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。デンマークを中心に近代北欧文学を研究。共著に『北欧文化事典』(丸善出版、2017年)、訳書にマックス・ワルター・スワーンベリ詩集『Åren』(LIBRAIRIE6、2019年)とイェンス・ピータ・ヤコブセン『ニルス・リューネ』(幻戯書房、2021年)がある。