第1回 「靴屋と劇場」 

アンデルセンが産声をあげた19世紀の初め、デンマークは総人口100万人に満たない田舎じみた小国でした。首都コペンハーゲンの人口は10万人で、これもなかなかこじんまりとした世界なのですが、アンデルセンの故郷オーゼンセは国内第二の都市ながら人口はわずか6千人に過ぎず、首都とのあいだに大きな隔たりがありました。

この小さな世界に生きたアンデルセンの父ハンス・アナスン(Hans Andersen 1782-1816)は、貧しい古靴修理職人だったといわれます。けれども、彼が中世以来の同職組合(laug)に属さない自由職人(frimester)だったことに注意を向ける人は多くありません。1855年に書かれたアンデルセンの自伝の冒頭近くで、はっきりそのことが書かれています。住民の半分が職人で占められたこの狭小な町に住みながら、同職者団体の外部に身を置いた男は、貧しいばかりでなく周囲から浮いた存在だったのかもしれません。「アヒルの池」の外へ飛び出そうとするアンデルセンのアウトサイダー的気質は、父から引き継がれたものだったのかもしれません。

アンデルセンは父について、「22歳になるかならないかの、驚くほど天分に恵まれた人で、真に詩的な才質だった」と回顧しています。中近世ドイツ史の研究者によると、肉体的負担が比較的軽く室内で過ごす時間の長い靴職人には、豊かな空想性や独特な宗教観を備えたインテリ肌の人物が多くいたようです。マイスタージンガーとして知られるハンス・ザックス(Hans Sachs 1494-1576)がその好例ですね。オーゼンセのアナスンも、靴職人の徒弟修行に出される前はラテン語学校に進学することを望んでいた秀才で、工房での作業のかたわら書物の魔力に取り憑かれ、非日常の世界へと心を遊ばせる風変わりな人物だったのでしょう。たとえば、息子アンデルセンが呱々の声をあげようとするまさにそのとき、父は産褥の妻のそばで国民的喜劇作家ルズヴィ・ホルベア(Ludvig Holberg 1684-1754)の本を声高らかに読み上げていたといいます。また、休みの日には息子のためにラ・フォンテーヌの『寓話』や『千夜一夜物語』を読み聞かせ、文学的想像力の種を植えつけます。

父が笑顔を見せた場面としてアンデルセンの記憶に残っているのは、唯一この朗読のひとときだけでした。鬱勃とした激情を持て余していたこの靴職人は、デンマークの同盟国フランスから現れた英雄ナポレオンの軍卒になるべく旅立ちますが、ホルシュタインまで行ったところですでに戦争は終結、1814年に諸隊とともに故郷へ帰参し、ほどなくして世を去りました。全欧的な英雄に憧れながら小さな日常世界の外に出ることが叶わなかった彼は、「アンデルセンになれなかったアナスン」といえそうです。
父の影響で頭のなかが物語への夢でいっぱいになったアンデルセンは、貧民学校の生徒に入れられても授業が頭に入らず、放心しているのかと思えばいきなり素っ頓狂な言葉を発するという有り様でした。読み書きが苦手なのにギリシャ悲劇や神話に熱中し、お手製の人形芝居の創作までやってのけます。独力で台本を書く力はありませんでしたから、ルター派国教会の標準的な教理問答集として使われたN・E・バレ(Nicolai Edinger Balle 1744-1816)の教本から抜き書きして台詞の代わりに用いたといいます。正規の市民教育の枠から外れた位置にいながら、キリスト教からも古代神話からもありあわせの材料を引っ張ってきて物語世界を生み出すブリコラージュの才質がすでに芽を出していました。11歳になると、亡父から読み聞かせられたホルベアよりも、シェイクスピアを好んで読み始めます。

父の朗読の声が響きわたっていた仕事場はさながら家庭劇場でした。当時オーゼンセには、北欧唯一の地方都市としては唯一の常設劇場が置かれていました。とはいえ、人材や出し物の多くはコペンハーゲンの王立劇場やドイツ諸都市からの巡演に負っていました。1818年にオーゼンセが王立劇場の巡演を迎えた折、アンデルセンは看板もちの男と気安く口をきく仲になり、端役で舞台出演まで果たしています。これを境に、バレエの『灰かつぎ』やデンマークの国民詩人エーダム・ウーレンスレーヤ(Adam Oehlenschläger 1779-1850)の戯曲を知り、みずからの進むべき世界が首都の演劇世界にあることを自覚しました。のちにアンデルセンが作った切り紙細工には、バレエや影絵芝居といった舞台情景を象ったデザインが多くみられます。綱渡りや梯子乗りの曲芸やパントマイム劇といった祝祭的驚異が目を奪っては消えていく夢のような光景が、異国への憧れを掻き立てたのでしょう。靴屋の息子にとって舞台とは、社会的上昇の可能性を夢みさせるとともに、物語世界の原型を用意したのです。

オーゼンセ劇場は、首都の王立劇場からもドイツやイタリアの移動劇団からも巡演を迎えていて、さながらスカンディナヴィアとヨーロッパの文化的な接触点ともいうべき空間でした。当然、文化の境界閾ならではの騒動もしばしば出来します。1757年、ヨハン・クンニガー(Johann Kunniger)というドイツ人の舞台監督が一座を引き連れオーゼンセに巡業に訪れたときのこと。町の薬屋に併設された飲み屋にいたこのドイツ人に向かって客のひとりが、外国語の芝居なんか見せて儲かるのかねと尋ねます。相手を自分と同じドイツ人と思い込んだクンニガーが相好を崩して答えていわく、「馬鹿なデンマーク人どもには何でもいいから見せておけば、簡単に満足してホイホイ金を出してくれるんだよ」。この発言はたちまち町中に知れわたり、ドイツ人の一座はとるものもとりあえず、散り散りになって町を去ったといいます。

ヨーロッパの中でデンマークの文化水準が低く位置づけられていた事情が窺われる挿話ですね。アンデルセンはやがてこの小さな世界から飛び出し、コペンハーゲンを経てドイツへ、そして東方世界と、未知なる大きな世界にぶつかりながら世界的作家へと成長していきます。それはまたこの後のお話ということで。

 

参照文献

参照文献
阿部謹也『中世の窓から』、筑摩書房、2017年。
Andersen, Hans Christian: Mit Livs Eventyr. C. A. Reitzel 1855.
Binding, Paul: Hans Christian Andersen – European Witness. Yale University Press 2014.
Dyrbye, Holger / Thomsen, Jørgen / Wøllekær, Johnny: I kunsten kan livet kendes – Odense Teater i 200 år. Odense Teater 1996.
Kofoed, Niels: H. C. Andersen – den store europæer. C. A. Reitzel 1996.

著者紹介 / 奥山裕介(おくやま ゆうすけ)

1983大阪府生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。デンマークを中心に近代北欧文学を研究。共著に『北欧文化事典』(丸善出版、2017年)、訳書にマックス・ワルター・スワーンベリ詩集『Åren』(LIBRAIRIE6、2019年)とイェンス・ピータ・ヤコブセン『ニルス・リューネ』(幻戯書房、2021年)がある。